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大阪の今を紹介! OSAKA 文化力|関西・大阪21世紀協会

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第48話 松平忠明まつだいらただあきら(1583–1644年)

徳川大坂城の初代城主

天正11年(1583)生まれ、徳川譜代の臣・奥平信昌の四男で母は家康の長女・亀姫である。同16年(1588)に5歳で家康の養子となり、松平姓を許される。文禄元年(1592)9歳のとき兄の死去により家督を継ぎ、慶長4年(1599)、徳川秀忠から「忠」の字を賜り松平忠明と名乗る。

翌年、関ヶ原の戦いに父とともに参戦し、慶長7年(1602)、19歳で三河作手藩主となる。同15年(1610)、伊勢亀山藩5万石に加増移封された。

慶長19年(1614)、大坂冬の陣では河内口方面の大将として参戦し、後に休戦協定が豊臣方と結ばれると大坂城外堀・内堀の埋め立て奉行を担当した。さらに夏の陣では、第1陣・水野勝成率いる7千人、第2陣・伊勢衆5千人を率いる本多忠政に続き、忠明は第3陣として美濃衆7千人を率い、茶臼山方面に参戦。忠明の家来で高齢の奥平金弥が大和口の先手として一番首を上げ、別の家来が大坂方の勇将・後藤又兵衛を道明寺の戦いで打ち取った。戦後、家康は京都二条城において諸将と共に大坂の陣の論功を行った。詮議の結果、松平忠明が戦功第一に決まり、元和元年(1615)、32歳で家康の命により摂津大坂藩10万石を与えられ、藩主として戦災復興に当たった。


現在にも生きる都市計画を推進

忠明は、大坂城の復興よりも、大坂市街地や農村地帯の復興を優先した。天下の台所としての繁栄に不可欠な堀川の開削をはじめ、寺院や墓地を移転して市街地を拡大。大坂城三の丸を開放して京都伏見の町人を移住させ、合計80余町の伏見町を新たにつくった[最近の学説では、伏見町の完成は元和5年(1619)で、忠明の郡山藩主への転出後とされる]。武家屋敷や御用達商人の住居を東横堀川の東側の上町に当て、一般町家は西側に復興させ今日の船場の基礎を確立し、新たな町割りの実施と水帳(検地帳)を作成、さらに戦時中に中断していた道頓堀の開削を行った。

道頓堀開削は、慶長17年(1612)、平野七名家の一つである成安道頓が中心となり、久宝寺出身の安井治兵衛・同九兵衛、平野出身の平野藤次郎(末吉家の一族)とともに着手されたが、大坂の陣で道頓は戦死、治兵衛は病死し工事は中断した。戦後大坂の領主となった松平忠明が元和元年(1615)、平野藤次郎、安井九兵衛に改めて開削を命じ同年完成した。名称は当初「新川」「南堀河」などと呼ばれたが、忠明により「道頓堀」と命名された。

また、元和3年(1617)には江戸堀川、京町堀川が完成し、元和6年(1620)には長堀川が完成。これらの堀川整備はいずれも忠明が承認したもので、大坂を城下町として再建する都市計画の主要をなすものであった。そしてこれらの堀川に囲まれた地域が「船場」で、今日にいたる大阪繁栄の礎となった。

下寺町よりあべのハルカスを遠望

忠明は市中の堀川整備に次いで、大坂城の弱点といわれた南側の防御線を強化するため、城下に点在していた仏教寺院のうち、浄土真宗以外のものを集中移転させた。そのうち最も南西に形成されたのが下寺町(大阪市天王寺区)である。浄土真宗の寺院を外したのは、借家が多く、道場のような原初的な寺院であったために境内に墓地をつくるような形になっていなかったことや、肉食妻帯が許されるため宗教として格下に見られていたこと、一向一揆により公儀に敵対したことなどが理由とされている。また、行政組織の整備として、元締衆の任命と市中町割を施行した。

元和5年(1619)、忠明は大和郡山藩12万石に加増移封された。以後、大坂は幕府の直轄地になったが、堀川の整備は継続して進められ、長堀川、立売堀川、安治川、堀江川などが完成した。また、寛永期(1624〜1643年)には「大坂三郷(天満組、北組、南組)」が発足。各組には「惣会所」がおかれ、惣年寄りが詰めた。

寛永3年(1626)には従弟の3代将軍家光とともに上洛し、従四位下・侍従に叙位・任官された。約20年間の郡山藩主時代には、剣豪・荒木又右衛門を家臣に取り立てた。なお、忠明が大坂の陣で帯刀していた「来国光(らいくにみつ)」は国宝に指定されている。

寛永9年(1632)1月30日、大御所秀忠の遺言で近江彦根藩主・井伊直孝とともに家光の後見人である大政参与に任じられ、同16年(1639)播磨姫路藩18万石に加増移封され、西国探題として幕政に重きをなした。また第一級の史料とされる『當代記』(寛永年間頃に成立)を著した。寛永21年(正保元年・1644)3月25日、江戸藩邸で死去。享年62。墓所は高野山中性院。


フィールドノート

松平忠明と大坂城

織田信長の没後天下を取った豊臣秀吉は、石山本願寺焼亡の跡地に大坂城を築城した。大坂冬の陣の講和後、松平忠明により本丸周辺に広がる二の丸、三の丸、惣構えの防御線は取り壊されて裸城となり、夏の陣で本丸は炎上し大坂城は焼失した。徳川幕府は元和6年(1620)から豊臣大坂城を地中に埋め込み、新しい城の再建に着手し、寛永6年(1629)に完成。初代大坂城代は内藤信正が伏見城代から転じた。本丸、二の丸の二重構造で、規模は元の大坂城の4分の1となった。現在の大阪城も同規模である。


郡山城

前任の水野勝成が元和5年(1619)8月に備後福山城に国替えの後、10月に忠明が大坂城から郡山城に入った。郡山城は夏の陣に先立って大坂方の襲撃を受け城下町は焼き払われていたため、忠明は大坂同様まず戦災復興に取り組んだ。


西横堀川

大阪市中央区と西区の境界にかつてあった堀川。元和3年(1617)松平忠明の大坂市街整備計画の一環として開削された。元和5年(1619)に江戸幕府が開削したとの説もある。かつては土佐堀川の錦橋あたりから道頓堀川に通じており、現在はほとんどが埋め立てられている。


天祥院(京都妙心寺塔頭)

松平忠明の菩提寺。長男・松平忠弘(播磨姫路藩18万石時代)が1644年〜1655年の間に開基した。現在は松平家とのつながりもなく石碑などもない。寺域は広くよく整備されている。


朝鮮通信使

第1回通信使は慶長12年(1607)4月7日に大坂着。徳川幕府の2代将軍の徳川秀忠、大坂城主・豊臣秀頼、代官・片桐貞隆(且元の弟)、ご馳走役・末吉孫左衛門吉康が接遇に当たり、肥前唐津藩主・寺沢志摩守広高の屋敷(北船場)が宿舎となった。第2回通信使は元和3年(1617)8月18日に大坂着。将軍は徳川秀忠、大坂城主(上使=幕府の使者となる)は松平忠明、ご馳走奉行には和泉州副官長長谷川左兵衛、小河清右衛門、末吉孫左衛門長方があたり、西本願寺津村別院が宿舎とされた。



2017年6月

(2017年11月改訂)

江並一嘉



≪参考文献≫
 ・新修『大阪市史』(第3巻)1989年3月31日
 ・『大阪市史』(第5巻)大正2年版「大坂濫觴書一件」全文掲載
 ・『大阪府史』(第5巻)
 ・『大和郡山市史』1966年
 ・宮本又次『大阪の商業と金融』毎日放送 1973年
 ・工藤寛正『徳川・松平一族の事典』東京堂出版 2009年
 ・煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』 東京堂出版 2015年
 ・続群書類従完成会『當代記・駿府記』
 ・小和田哲男『関ヶ原から大坂の陣へ』 新人物往来社 1999年



≪施設情報≫
○ 天祥院(妙心寺)
   京都市右京区花園妙心寺43
   アクセス:JR嵯峨野線(山陰本線)「花園駅」 下車
   電  話:075−463−6502

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